出版の未来(2−1)09-10-30
1.内部崩壊
◇出版不況は、とことん深まってきたと思われる。もともと2兆円程度の小さな業界であり、そこに5000社余りの出版社がうごめいている不安定な業界なのである。
*ちなみに「業界動向サーチ」を見ると、出版業界は、9594億とある。しかしこれは上場企業の公開データだけで、講談社も小学館も上場していないので、まるで実体を表していないと思う。ベネッセが業界売上げの4割を占めるが、ベネッセの本業は出版ではないだろう。業界動向サーチは、一般的な業界の基準に合わせてデータを作っているのだろうが、それだけ出版業界は一般的ではないということだろう。
*ちなみに2兆円という市場規模は、出版取次大手2社がそれぞれ6000から8000億程度の売上であり、その他の取次の扱い高を見渡して、だいたいの数字はこんなものだろうと思う。
◇出版不況の要因は様々に語られている。曰く「若者の活字離れ」「インターネットなどさまざまな情報提供システムの拡大」「リーマンショックなどによる広告収入の激減」など。確かに、そうした外部要因も多々あるだろうが、僕には、出版社自身の内的要因の方が、はるかに大事な因子だと思っている。それは、出版社が出版することの目的を失っている、ということである。
◇現代の出版文化は、明治の頃、日本の近代化とともにスタートした。欧米から入ってくる新しい知識、考え方を翻訳し解説する書籍の需要があった。また日本社会ははじめて目覚めた市民意識・個人意識を育てるために、書籍は大きな役割を果たした。出版社の人間は日本社会に新しい情報を提供することが、自らの使命だと確信し、半分ビジネスで半分は社会的使命感で働いたのだと思う。この流れは戦後社会においても、脈々とつなげられてきた。
◇これは、出版に限らず、日本の社会建設全般に言えることだろう。「半分ビジネス半分社会的使命」という働き方は、どの業界においても近代日本人の基本的な労働スタイルであったように思える。このバランスが急速に崩れたのは、80年代バブルの時期からだと思う。「ビジネス」の部分が急速に膨張していったのである。
◇かつて「編集会議」というのは、書籍の中身を検討する会議であった。ところが、80年代になってから、編集会議で最初に討議されるのは、その作者が過去にどれだけ部数を出していたか、が問われるようになってきた。無名の新人を発掘し、丁寧に育て上げるという編集者の職人的な職務が否定され、POSデータによる冷徹な分析を中心に会議が進む。そこでは「新しい時代を作るんだ」という出版社が持っていた「社会的使命」の役割が失われ、大量生産大量販売だけを良とする成長戦略しか描けない。
◇かつて、出版社と著者は家族のような関係であった。著者とは子どもじみて、わがままな種族であり、それを飼い慣らし、歴史に残る作品へと昇華させていくのが、編集者の腕のみせどころであり喜びであったはずだ。しかし、現在、何が起きているか。現代の出版社に評価される編集者は、新しい才能を発見し育てるのではなく、「今、売れている著者」をつかまえて、原稿を書かせられる編集者である。今、売れているという著者は、特定の出版社に帰属しているのは少なく、どこの出版社からもまんべんなく出している。
◇編集者が、遅筆の著者に、どうしても原稿を書いてもらいたくて、何年も通いながら、いじわるされながら、最後に原稿をいただく、という話が昔は普通にあった。しかし、80年ぐらいから、編集者にとって「良い著者」とは「締め切り厳守で、売れる原稿を書いてくれる人」になった。それまで編集者とは出版社の人間だけど、著者の側にたって、著者の魅力と才能を最大限に引き出してくれる人だったのに、サラリーマン化した編集者は、自分の年間ノルマだけが本を出す目標になってしまったのだろう。
◇新しい情報を、新しい著者を世の中に知らしめるのだ、という出版社のもっている大きな内的喜びが失われたのだと思う。そして、それは、結果的に著者の層を消費尽くして、読者の期待を裏切っていくことになる。
◇「社会的使命」を失った組織は、時代の流れに対抗する力を失う。大手出版社のサラリーマン編集者は、テレビ局のメディアマンと同じように、流行のタレントや文化人との付き合いの中で、気分だけは時代の先頭にいるような気持ちになって、力仕事は外注の編集プロダクションに投げ出して、ぜいたくな取材活動をしている。電車で届ければよい校正用紙を、バイク便をバンバン使って効率化する。裸の王様である。
◇それでも、小さな出版社には、まだ「社会的使命」を守っているところも少なくない。例えば「ランナーズ」などは、ランニング人口を増やすという自らのテーマに即して、イベント実施などを行いつつ、出版活動を安定させている。
◇目的を失った組織は、一度、崩壊した方がよいのかとも思う。その廃墟の中で、新しい目的を見いだす人たちが現れてくるはずだから。
2.広告と出版
◇てなことで、崩壊する出版業界を突き放しただけでは仕方がない。贅沢しているバブル出版社のトップたちが失業するのは痛みにならないが、この業界でメシを食ってる多くの仲間たちが路頭に迷うのは辛い。なんとか、突破口を一緒に考えたい。
◇僕が、以前から主張している考え方に、「書籍に広告を」というのがある。現在の出版不況の最大の要因は、販売不振もあるが、それ以上に雑誌媒体の広告収入の激減である。これは、リーマンショック以来の企業の広告宣伝費のカットやインターネット広告への転換という問題もあるが、それ以前に、企業の商品を売るために雑誌を創刊する、という読者に対する根本的な裏切りを、読者が見抜いた結果でもあるのだと思う。
▼参考資料
「CanCam」「JJ」が凋落 女性誌売れなくなった理由
◇インターネットの登場で、雑誌の持っていた即時性という機能がインターネットに一番奪われた。キンドルのような電子書籍端末の衝撃が、もうすぐ日本にもやってくるが、それでも「書籍」という古代から続けられてきたスタイルそのものは崩壊しない。
◇戦後の文化は、大量生産・大量消費の成長社会によるマスマーケット文化である。更に言えば大量生産・大量広告・大量消費・大量破棄という構造だろう。「大量広告」の一翼を担ったのが出版界における雑誌広告である。この構造自体が崩壊しつつあるわけだから、大量広告が減少するのも当然だ。しかし、産業構造がある限り広告そのものがなくなることはない。より効率的な広告アプローチが求められていくだけだ。
◇雑誌の発展は広告入稿の増大であった。しかし、書籍には、広告が入っていない。知らない人は意識してもらいたいが、書籍には、自社広告以外は入っていないのである。広告が入っているのは書籍ではなくてムックと呼ばれていて、雑誌の一種である。
◇なぜ書籍に広告が入っていないかというと、これには歴史がある。出版界は、版元と呼ばれる出版社と、取次・書店の流通業者とが一緒に作ってきた業界である。戦前においては、出版社そのものが取次をやっているところも多く、そのなごりが神田村である。そこにおいては、書籍は、売れたら流通経費がいくらというルールが決められていた。返品自由の再販の問題はテクニカルな問題なので、本質的な問題ではない。
◇問題は雑誌であった。売れたら、その定価の何割かが書店に手数料として入るわけだから、書店にとっては定価は高い方が助かる。しかし、出版社は、広告収入を拡大することにより、部数を増やすために定価を下げ始めたのである。本来、物価の値上がりとともに雑誌の定価も上昇してよいものを、多額の広告収入が出版社に入ってきたために、定価は逆の動きをしてしまった。しかも、広告収入によって出版社は利益を大幅に向上させたが、その利益配分は、雑誌を流通させている書店には還元されなかった。そして、リクルートである。リクルートは強力な営業部隊を組織して、どのようなジャンルであろうと圧倒的な広告収入を確保出来る体制を作り、続々と雑誌を創刊した。雑誌の販売利益などいらないから、タダみたいな定価で書店に雑誌を流し始めた。書店は、出版社の広告収入確保のために流通を担わされ、マージンは微々だるものになった。
◇雑誌の広告収入が販売利益よりあがってきた段階で、書店側は危機感を感じた。雑誌の方式で書籍に広告が入ってくるようになったら、書籍の定価も下がり、書店経営は破綻する、と。かくして、業界のルールとして、書籍には広告が排除されることになったのである。取次に書籍の見本を持って部数を確定してもらう時に、広告が入っていたら、受け付けてもらえない。
◇さて、雑誌拡大期の書店側の危機感は分かる。しかし、今は、版元も含めて、出版業界の危機である。この危機を救うのは、かつての書店空間のように、新しい出来事や表現の実験があふれていて、お客さんがわくわくするような知的空間を復興することしかない。そのためには、これまでの本の作り方や編集者意識ではダメなのだと思う。新しいものを作るには、当然、コストもかかる。
◇書籍から広告を排除したのは、広告収入の利益を出版社が独占してしまい、流通に還元しなかったからである。であるなら、広告収入も取次・書店に還元するスキームであれば、書籍に広告を入れることは可能だと思う。なんとか、こういうことを検討・提案出来るようなボードが作れないものかと思う。
◇考えてみると、雑誌は、ある世代やクラスター別に編集されているが、とても大雑把なくくりである。書籍は、はるかに、ターゲットが限定される。例えば「赤ちゃんの名前の付け方」という書籍を買った女性は妊娠しているのである。「チベット旅行ガイド」という書籍を買った人はチベットに行くのか、行きたいのである。広告主としては、これほどセグメントされた媒体は他にないだろう。