デジタルメディア研究所研究員・東大法学部卒業後、都庁勤務などを経てIT関係のライター、翻訳者。著書に「データベース・電子図書館の検索・活用法」(東洋経済新報社・下中直人、市川昌弘と共著)、「 ソーシャル・ウェブ入門入門 Google, mixi, ブログ…新しいWeb世界の歩き方」(技術評論社)など。個人のブログはSocial Web Rambling

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2008年02月29日

Amie Streetはピープルパワーによる楽曲流通の新しいかたちをめざす

音楽ビジネスにはエジソンが蓄音機を発明して以来の革命が起きている。音楽ビジネスは伝統的な著作権の主張だけでは支えきれなくなっている。

レコード産業の根本的なビジネスモデルは長年「録音製品の複製と流通が高価で困難なこと」に頼ってきた。しかしデジタル化によって無限の複製がゼロコストで作れるようになり、さらにインターネットによって無限の流通がゼロコストで可能になった。

この変革はテクノロジーとそれをベースにした社会的インフラに起きた革命から派生しているものだからいつまでも人為的に押しとどめておけるものではない。

Yahooの音楽部門のディレクターは「ナップスターを著作権侵害を広めたといって訴追するのはニュートンを重力の概念を広めたといって訴追するようなものだ」と批判している。

しかし、既存レーベル側は頑として現実を「見ないフリ」をし、もっぱらユーザーを無差別に訴えるという抑圧的・権力的な手段にたよってきた。

しかしいくらユーザーを無差別に訴えてもユーザーに音楽を買わせることはできない。レコード産業の市場規模は急激に収縮している。

レコード産業と音楽ビジネスは別物である。しかしレコード産業と著作権を食い物にする官僚の力が支配的な日本市場ではレコード産業が音楽ビジネス全体を衰退させる恐れがある。

その意味でも新しいビジネスモデルが成功することが音楽ビジネス全体のために必須だ。

インターネットを利用してユーザーとアーティストを直結し、レーベルやプロダクションの介入をできるかぎり排除した新しい音楽のビジネスモデルを作る試みが2006年後半から英米で目立つようになっている。

その中で、Amie Street という新しい音楽販売ビジネスモデルを試みているサイトが注目を集めている。

このビジネスモデルはユーザーによる「逆オークション」で価格を設定して楽曲をダウンロード販売するというもの。

アーティストが曲をアップロードすると、ユーザーは当初無料でダウンロードできる。曲に人気が出てダウンロード数が増えると有料になるが、最初は1曲10セント程度ときわめて安い。人気が出るにしたがって価格が上がり、最高額は99セントとなる。平均的な人気曲は30セント前後で販売されている。アーティストは売り上げの70%の分配を受ける。

Amie Streetのビジネスモデルにはファウンダーのジェフ・ベゾスが賛意を示し、支援に乗り出している。

このAmie Streetの日本版がオープンしていることを最近教えられた。社長の松田氏は、TechCrunchで、Amie Street の存在を知り、直接アメリカの本家と交渉して日本法人を設立したという。

実はこの松田氏と2月27日にデメ研の橘川社長、OnBookの市川編集長の両氏ともどもお会いする機会があった。

(次回につづく)

2008年02月17日

エリザベス/ゴールデン・エイジ ケイト・ブランシェットはすばらしい

ひさびさに映画を見た。日比谷スカラ座で「エリザベス ゴールデン・エイジ」。

ケイト・ブランシェットは申し分ない。撮影、美術はよい。演出、スペクタクルシーンもまずまず。しかし残念ながらウォルター・ローリー役のジェフリー・ラッシュがダメ。脚本も弱い。

1点=金返せ 2点=不満 3点=料金だけのことはある 4点=DVDを借りてまた見る 5点=感動した!

というスケールで3.5点。

ローリーは山師、海賊、冷酷な人殺しとロマンティックな恋人の両方の側面を表現しなければならないが、ジェフリー・ラッシュは頭の悪そうな粗野な田舎者にしかみえない。海賊といっても「宝島」の舵手イズレール・ハンズくらいがせいぜい。船長の柄ではない。ジョニー・デップが(目のくまどりだけは止めて)やったら、とあらぬことを考えてしまった。

脚本もアルマダとの戦いと女王とローリーの恋に話が分裂したまま、まとめきれていない。

英国史上最初にして最高のスパイマスター、ウォルシンガムの名前と役割を世間に広めた点は買える。

2008年02月12日

デジタルvsアナログ―どちらがより「自然」?

「どうもデジタルはさっぱりで」とか「近頃はデジタル時代だから」などと日常使われる場合の「デジタル」というのは「コンピュータ」とほぼ同義のようだ。「やっぱりアナログはうるおいがあって自然でいいね」というときの「アナログ」は逆に「非コンピュータ的」を意味している。

しかし、デジタル情報はコンピュータ化のための不自然なテクノロジーだが、アナログ情報は人間本来の機能に根ざした自然さなもの、というような分類が本当にそうなのか、考えてみる必要がある。

大脳生理学的にいえば動物の神経系の情報伝達はパルスの数で刺激の強さを表現しているのだから完全にデジタルなシステムだ。人間の網膜も独立した感光性細胞の集合だから全体としてデジタルビデオシステムである。

そういった生理学的レベルを別にしても、デジタルという言葉自体に重要なヒントが隠されていると思う。

英語でdigitalはdigitの形容詞だ。digitとはもともとラテン語のdigitus=指の意味である。インド・ヨーロッパ語根のdeik=指にまでさかのぼる古い言葉だ。指はフランス語ではドワ、イタリア語ではディト、ギリシャ語ではダクテュロスという。すべて語頭にd音が来るのは偶然ではない。ちなみに英語とドイツ語で指のことをfingerというのはインド・ヨーロッパ語根のpenkwe=5から来ている。(アメリカ国防総省をペンタゴンというのは五角形という意味)。

「指」→「指折り数える」→「数」となったわけだ。

そう、デジタルというのは根源的には「いち、にー、さん、よん…」と指折り数えることなのだ。

080212_finger_fusion_anat02.jpg

(この項つづく)