2008年01月21日
なぜ英語がわかる人でも「わからない」と感じるのか? Part 2言語の脳機能に基づく言語獲得装置の構築
ノーム・チョムスキーの「生成文法」の全てが正しいかどうかは大いに疑問だが、少なくとも「人類は生得的に普遍言語機能を備えている」という基礎となるドクトリンは最近の大脳生理学の進歩で日一日、補強されている。
人類の言語の枠組みはDNAに刻まれているとなれば、人類の祖先がアフリカで生まれたときに「人類祖言語」も生まれ、その後、人類が時間的・地理的に拡散していく過程で言語も個別言語に分化していったというシナリオが自然だ。
ところで、もともと言語というのは「聞く・話す」という音声による伝達機能であり、文字というのは人類の歴史上ごく最近、一部の地域で利用されるようになった2次的な機能にすぎない。そのためアルファベット文化圏の言語学では、文字で書かれた言語は音声言語の単なる反映に過ぎないとして、いっさい研究の対象とする必要はないという態度が支配的だった。(現在も支配的である)。
ところが日本のような「漢字かな混じり言語」地域では、事情が違う。日本語というのは文字を知らなければ十分に利用することができない。
「わかる」という心的状態はDNAに刻まれた「聞く・話す」という身体言語回路を起動させないかぎり得られない。ところが日本語は「耳で聞いただけではわからない=音声だけでは言語として不完全」という世界的に珍しい、やっかいな言葉なのだ。
これは中国語から漢字を全面的に輸入したにも関わらず、発音までは輸入できなかたため、理不尽なほど多数の同音意義語が生じてしまったためだ。(英語には音節の数が数千あるが、日本語には「あいうえお」50音に濁音、拗音などすべて合わせても100を少々超える程度しかない)。
「コウテイ」と聞いただけでは高低、公定、肯定、校庭、工程、公邸、校訂、航程…なんのことやらわからない。「このツボはコウテイがショゾウしていた」とまで聞いても、ナポレオンか利休の弟子かわからない。そもそもたった一つの発音「コウテイ」にこれほど多数の意味があることを記憶するには漢字の知識が必須だ。
逆に、われわれの耳はいつも無意識に文字にたよるクセがついてしまっている。いつも補助輪つきの自転車に乗っているようなもので、これが音声コミュニケーションの能力の発達を大幅に妨げている原因のひとつだろう。
「英語(に限らず外国語)が分からない」と感じる理由は「分かる」という感覚がDNAに配線された音声言語に基づいているからに違いない。つまりいくら文字で文章を読んで理解できても、音声回路を作動させないかぎり「分かった」という感覚は得られないのだろうと思う。
(この項続く)
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