「人間はその本性からしてソーシャル・アニマルである」 (アリストレス)―「1対不特定多数一方通行」のマスメディアに対して、個人の顔が見える対話的なコミュニケーションをソーシャルメディアと考えてみてもいいんではないかと思います。ソーシャルメディア的現象をあれこれメモしてみます。
デジタルメディア研究所研究員・東大法学部卒業後、都庁勤務などを経てIT関係のライター、翻訳者。著書に「データベース・電子図書館の検索・活用法」(東洋経済新報社・下中直人、市川昌弘と共著)、「 ソーシャル・ウェブ入門入門 Google, mixi, ブログ…新しいWeb世界の歩き方」(技術評論社)など。個人のブログはSocial Web Rambling
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2008年01月24日
なぜ英語がわかる人でも「わからない」と感じるのか? Part3ちょっと話は飛ぶが、国語研究所というのは社会保険庁や高松塚を破壊してJASRACに天下りするのを生業としている文化庁といろいろ共通点を感じさせる。特に「外来語委員会」は困りものだ。
Wikipediaによると、「外来語委員会も同研究所に所属し、外来語言い換えを提案している。(例:「アーカイブ」のかわりに「保存記録」また「記録保存館」)」そうだ。要するに大本営陸軍部が英語を敵性語と認定して「ストライク」を「良い球」と言い換えさせたのとまったく同じことをいまだにやっている。実に珍しい人たちだ。
カタカナを漢字(中国語)に言い換えさせれば「分かりやすくなる」というのも、「特定空港周辺航空機騒音対策特別措置法施行規則」というような規則名を作って平然としている、いかにも役人らしい発想だ。
カタカナ語の導入は、日本語が極端に音声伝達の能力に欠ける言語であるために、話者が本能的にその欠陥を補おうとしている努力の現われだという点がまったく考えられていない。というよりそもそもこういった国語役人の頭の中には言語はコミュニケーションの道具だという観点が抜けている。
たとえば外国語での日本人の姓名表記を「姓・名の順にしろ」とかいう「と」な案などがそうだ。最近日本でもガイジンの中にまで「姓・名」の順で表記をする例があって非常に紛らわしい。Girolamo PANZETTA氏がバラエティーに出演するときに「パンツェッタ・ジローラモ」と名乗っているのは「芸名」だから目くじら立てるのも大人げないが、ほとんどの日本人にはどちらが姓で、どちらが名前がわからないだろう。
長年の間に、日本では ・ローマ字、カタカナ表記の人名は名・姓の順 ・漢字表記の人名は姓・名の順
という慣習が確立している。「順序」に重要な情報が織り込まれていたのに、それを大本営陸軍部宣伝班の発想でぶちこわされては困る。行革の一環としてこの「外来語委員会」はぜひ廃止してもらいたい。こういう破壊的排外主義はまったく迷惑である。
2008年01月21日
なぜ英語がわかる人でも「わからない」と感じるのか? Part 2言語の脳機能に基づく言語獲得装置の構築
ノーム・チョムスキーの「生成文法」の全てが正しいかどうかは大いに疑問だが、少なくとも「人類は生得的に普遍言語機能を備えている」という基礎となるドクトリンは最近の大脳生理学の進歩で日一日、補強されている。
人類の言語の枠組みはDNAに刻まれているとなれば、人類の祖先がアフリカで生まれたときに「人類祖言語」も生まれ、その後、人類が時間的・地理的に拡散していく過程で言語も個別言語に分化していったというシナリオが自然だ。
ところで、もともと言語というのは「聞く・話す」という音声による伝達機能であり、文字というのは人類の歴史上ごく最近、一部の地域で利用されるようになった2次的な機能にすぎない。そのためアルファベット文化圏の言語学では、文字で書かれた言語は音声言語の単なる反映に過ぎないとして、いっさい研究の対象とする必要はないという態度が支配的だった。(現在も支配的である)。
ところが日本のような「漢字かな混じり言語」地域では、事情が違う。日本語というのは文字を知らなければ十分に利用することができない。
「わかる」という心的状態はDNAに刻まれた「聞く・話す」という身体言語回路を起動させないかぎり得られない。ところが日本語は「耳で聞いただけではわからない=音声だけでは言語として不完全」という世界的に珍しい、やっかいな言葉なのだ。
これは中国語から漢字を全面的に輸入したにも関わらず、発音までは輸入できなかたため、理不尽なほど多数の同音意義語が生じてしまったためだ。(英語には音節の数が数千あるが、日本語には「あいうえお」50音に濁音、拗音などすべて合わせても100を少々超える程度しかない)。
「コウテイ」と聞いただけでは高低、公定、肯定、校庭、工程、公邸、校訂、航程…なんのことやらわからない。「このツボはコウテイがショゾウしていた」とまで聞いても、ナポレオンか利休の弟子かわからない。そもそもたった一つの発音「コウテイ」にこれほど多数の意味があることを記憶するには漢字の知識が必須だ。
逆に、われわれの耳はいつも無意識に文字にたよるクセがついてしまっている。いつも補助輪つきの自転車に乗っているようなもので、これが音声コミュニケーションの能力の発達を大幅に妨げている原因のひとつだろう。
「英語(に限らず外国語)が分からない」と感じる理由は「分かる」という感覚がDNAに配線された音声言語に基づいているからに違いない。つまりいくら文字で文章を読んで理解できても、音声回路を作動させないかぎり「分かった」という感覚は得られないのだろうと思う。
(この項続く)
2008年01月17日
なぜ英語がわかる人でも「わからない」と感じるのか?しばらく前に「遺伝子操作でネコを怖がらなくさせたネズミを作ることに成功」という記事がマスコミの注目を浴びたことがある。本家の研究室のプレスリリース「哺乳類の匂いに対する好き嫌いは先天的に決まっていた − マウスの脳内から先天的と後天的の2つの匂い情報処理回路を発見 −」はたいへんわかりやすく、よく出来ている。写真も単なる実験の記録という以上にツボにはまっていてうまい。
この研究で明らかになった重要な点は、動物の行動には「ハードワイヤード」された反応と「プログラマブル」な反応が並行的に存在することだ。上の写真で青い線がDNAに書き込まれた先天的な反応で、赤い線が後天的に学習された反応を示している。
言語活動はマウスのような手軽に実験できる動物には存在しないので、残念ながら同様の実験を言語の分野で行うのは難しい。しかし、現在までにいろいろな方向から言語もハードとソフトの平行的な活動だろうという証拠が積み重ねられている。つまり人間の言語活動のベースとなる機能の一部はDNAに直接書き込まれているのだろうと推測されている。
人種、性別を問わず赤ん坊はどんな言語環境で育てられてもその環境の言語をたやすく学習する。またこれほど膨大な数の言語が存在するのに、言語の基本的構造は変わらない。(あらゆる言語に名詞、動詞、形容詞、目的語などの文法的範疇が存在する)。こういったことは人類のDNAの共通性に由来していることを強く示唆するものだ。
つまりハード(脳の先天的機能)的にはどんな言語だろうと「わかるのは人間なら当たり前」なのだ。
しかし人間の言語活動には完全にソフトウェアに規定されている分野がある。それは文字言語の領域だ。いうまでもなく文字は100%文化の産物だ。文字を読み書きするDNA因子というのは考えられない。
そこでどういうことになるのか?
文字言語(読み書き)だけを習うというのはいわば脳の後天的回路だけを使うという点で上の「先天的回路を壊した遺伝子操作マウス」によく似た状態になっていると考えられる。
(この項つづく)