デジタルメディア研究所研究員・東大法学部卒業後、都庁勤務などを経てIT関係のライター、翻訳者。著書に「データベース・電子図書館の検索・活用法」(東洋経済新報社・下中直人、市川昌弘と共著)、「 ソーシャル・ウェブ入門入門 Google, mixi, ブログ…新しいWeb世界の歩き方」(技術評論社)など。個人のブログはSocial Web Rambling

rssフィード
Movable Type 3.2-ja-2

2007年11月13日

ロッキングオンの事務所放浪時代

金曜日のパーティーで岩谷宏さんの奥様にお目にかかったのでロッキングオン時代の記憶がいくつか断片的に戻ってきた。私が最初にロッキングオンを見たのは池袋西口の今は亡き芳林堂本店の1奥の同人誌コーナーで平積みなっていた3号だった。真崎守のイラストが緑のモノクロで印刷されていた。それを読んでなにか投稿したらしい。

会いに来ないかと呼ばれて行ったのが渋谷丸山町の坂の中腹のラブホ街の雑居ビルの2階か3階だった。えらく見晴らしがよかった。渋谷は紺のトレンチを着て忙しげにしていた。ちょうどデビッド・ボウイの写真をあしらった銀色の表紙の4号が刷り上ったところだった。

岩谷さんの勤めている会社に居候しているということだったと思うが、その居候させていただいている会社の人をほとんど見かけた記憶がない。このビルではサブマリンという新宿のロック喫茶の常連の女の子と2人で何回かしょざいなく電話番をした。

そんな幽霊屋敷みたいな事務所では長続きするわけがなく、会社が移転したのか別の会社になったわからないないが居候先が一気に八丁堀に飛ぶ。これが階段はぎしぎし軋んで油性ワックスのにおいがしてドアはすりガラスにはげちょろけの金文字、というレトロというより古色蒼然たる木造2階建。ここへはNHKのラジオ番組が取材にきた。当時デンスケと呼ばれたプロ用小型オープンリールテープコーダーがもの珍しかった。

八丁堀はけっこう長かったような気がする。よく勤労福祉会館の暗い食堂で昼飯を食った。橘川によると八丁堀の後、築地へ移ったというのだが、そこの記憶がない。春から夏にかけて、田端の駅から坂を上った閉店した喫茶店に少しいて、それから赤羽のこれも閉店した喫茶店に移ったと思う。この喫茶店のオーナーで元マスターは渋谷の叔父さんだったと思う。2階の窓から見下ろすと北本通の電柱に「注射堂肛門科」という看板が出ていたのがイヤに印象に残っている。

赤羽の後が東中野の橘川の事務所兼住まいだったろうか? ここはビルの向かいに今で言うビストロのはしりのようなカウンターだけの洋食屋があって、エビドリアをときどき食べた。その後しばらくロッキングオンから離れていて、次に戻ったときが駒沢の橘川家だったか。ロッキングオンをやめてからだいぶたってから六本木の事務所に1〜2度遊びに行ったことがある。もう就職していた時期だったか、その直前だったか?

いや、いろいろ覚えているような気がしているだけで、穴だらけのjフルイもいいところ。記憶をしゃくってももうほとんどひっかかってこない。日記はかかないくても少しは写真でも撮ってあったらもう少し思い出すタネも残っていたのだろうが。なぜか長いこと日常の記録写真を毛嫌いしていたのが残念。

trackback

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.demeken.net/MT/mt-tb.cgi/64

comment

» 岩谷けい子
2007年11月18日 21:30

ナメちゃん、けい子さんだよ〜。
ブログを作ったから、
ぜひ、訪問してね。

http://blog.goo.ne.jp/keikoiwatani

» 橘川幸夫
2007年11月20日 10:52

電話番してたサブの常連女の子は、確か、青学の田島さんという名前ではなかったか。

» 橘川幸夫
2007年11月20日 10:57

東中野のビストロは「イト」だ。今でもあると思う。目の前で作るピザがうまかった。

» namekawa
2007年11月20日 13:08

>電話番してたサブの常連の女の子は

みんなマリっていってたな。大久保青志くんの仲間だったかな? 青士くんは都庁にいたころに都議に当選して驚いた。たしか一度電話で話したことがある。

東中野のイト、まだあるなら行ってみたいが、マスター、いい年だろうな。

コメントを投稿

名前
メールアドレス
URL
この情報をcookie に記憶させる場合、チェックをつけてください。
コメント