商品
心眼眼鏡というのは、もちろん、
やがて発売されるだろう、
コンタクトレンズ型デジカメ〈通信機能付き〉の
商品名である。
心眼眼鏡というのは、もちろん、
やがて発売されるだろう、
コンタクトレンズ型デジカメ〈通信機能付き〉の
商品名である。
銀塩カメラの時代は「自分の見たものを自分のものとする」ということがカメラマンの立場だったのだろう。
デジカメにおいては「自分の見たものを全体のものにする」というのが立場だ。
こないだ会った人は、銀塩カメラで長く撮影してきた人、デジカメでは撮れない、と言っていた。
そうだと思う。デジカメというモンスターを個人の小さな恣意でコントロールすることは出来ないのだ。
インターネットを自分の部屋にすることが出来ないように。
撮ろうと思う限り撮れない。カメラマンが風景・状況と一体になった形でしか、デジカメは扱えない。
ふふふふふ。
仕事を楽にしようとして、楽になったら
スポーツで汗を流す。
人間は不思議な動物だ。
情報公開法を夢中に整備しつつ、個人情報保護法案を
過激に推進する。公に対する私の攻撃。
帝国主義ならぬ帝私主義
個人情報が大事だと言いながら、
スーパマーケットのお姉ちゃんの名前がレジシートに
クレジットされている。
個人情報保護法によって守られる「自由」とは何か。
それは窒息していく自由ではないのか。
やがて写真機は非合法になるだろう。
街頭で写真を撮れば、さまざまな個人が写る。
彼らのプライバシーが写真の価値となる。
新聞や雑誌は、個人が特定出来ないように、
フォットショップ処理をかける。
しかし、時代は、そちらの方向には動いてはいないのだ。
やがて、どのような小さな情報からでも、その人の個人が
特定出来るようになる。
そうなったら「写真」なんて撮れなくなるさ。
花や猫の写真を撮る中年が多いのもうなづける。
個人情報の主張をしないものばかり撮ってるわけだ。
しかし、写真ってそういうものだったのか。
風景の中に時代を感じ、
表情の陰りの中に時代を思うものではなかったのか。
すべての写真が盗撮になる前に、最後の写真を撮っていきたい。
やがて、コンタクトレンズがカメラになる。
個人が見たものを見たまま
世界に発信するようになる
20世紀は「何を見たか」の時代だった
21世紀は「どのように見たか」の時代である
イマはただ新しい時代を生きるための
トレーニングの時代
楽しい修行の時代
見つづけることだけが
生きつづけること