« 心眼眼鏡論 1 | メイン | 不可能性の魔 »

個人という情報

仕事を楽にしようとして、楽になったら
スポーツで汗を流す。
人間は不思議な動物だ。

情報公開法を夢中に整備しつつ、個人情報保護法案を
過激に推進する。公に対する私の攻撃。
帝国主義ならぬ帝私主義

個人情報が大事だと言いながら、
スーパマーケットのお姉ちゃんの名前がレジシートに
クレジットされている。

個人情報保護法によって守られる「自由」とは何か。
それは窒息していく自由ではないのか。

やがて写真機は非合法になるだろう。
街頭で写真を撮れば、さまざまな個人が写る。
彼らのプライバシーが写真の価値となる。

新聞や雑誌は、個人が特定出来ないように、
フォットショップ処理をかける。
しかし、時代は、そちらの方向には動いてはいないのだ。
やがて、どのような小さな情報からでも、その人の個人が
特定出来るようになる。

そうなったら「写真」なんて撮れなくなるさ。
花や猫の写真を撮る中年が多いのもうなづける。
個人情報の主張をしないものばかり撮ってるわけだ。

しかし、写真ってそういうものだったのか。
風景の中に時代を感じ、
表情の陰りの中に時代を思うものではなかったのか。

すべての写真が盗撮になる前に、最後の写真を撮っていきたい。


545.JPG

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.demeken.net/MT/mt-tb.cgi/43

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)